子ども園の授業で使う絵カード等
| ●はじめに どんな原子も,原子核(陽子と中性子)と電子でできている。 ただその数が違うだけ。 私はそれをずっとずっと不思議に思っていました。 まったく同じものが集まっただけなのに, ただ,その数が違うだけなのに, あんなに多種多様な原子になるなんて, 不思議でたまりませんでした。 しかし,私はずっと特にそれを追究しようとは思いませんでした。 「不思議だけどそういうものなんだ」とあきらめていたような気がします。 しかし,思いがけないことから,思いがけず,いろいろな勉強をすることになり,たくさんの方々の助けがあったおかげで,原子に対するイメージがずっと豊かになり,多種多様な原子への理解が,うんと深まった気がします。そして,「同じものが集まっただけなのに,どうして多種多様なものになるのか」ということがやっと少しわかってきた気がします。 ●今の私のイメージ どんな原子も,原子核(陽子と中性子)と電子でできている。ただ数が違うだけ。そして,どの原子もみんな,それぞれの原子で電気的には+-0になっている。 〈かつての私〉の大きな,間違った思い込みは,「+-0になったら,もう0なんだから,その外に電気的な力を及ぼすことはない」というイメージだったと思います。 確かに,同じ場所に同じだけの+と-があったら,その電気的な力は0になってしまうでしょう。しかし,原子の場合は,+と-が同じ場所にあるわけではないのです。 数だけ見れば「+-0」であったとしても,〈+からの距離〉と,〈-からの距離〉が違えば,その影響力は同じではありません。さらに,「-(電子)」は,数が多くなればなるほど,その分布の場所も,密度も多種多様になる可能性があります。そうすると,その分布や密度に応じて,「-(電子)」が他のものに対する影響力も,違ってきて当たり前です。 どんな原子も,原子核(陽子と中性子)と電子でできている。ただ数が違うだけ。構造的にも,原子核が真ん中にあって‥‥というのはどの原子でも同じなのだけど,「陽子までの距離,数の違いによる電子のあり方」に違いができて,他の原子に対する影響力に違いができる。そして,そういう影響力の違いが,原子自身の違いといえる。 さらに「数がいくつのときには,電子はどんな分布や密度になるのか」,「その影響力はどんなものなのか」ということは,もうすでに,数学的に式を解くことでビシッと求められるようです。でも,それを理解したり,実際に解いたりするためには,莫大な基礎学力が必要みたいです。 ・・・と,今の私はこんな風に思っているのですが,いかがでしょうか?もしも,間違っているのなら,ぜひとも教えてほしいです。 今の私のこんな理解,半分は「それ以上知ることをあきらめた」ともいえるのですが,いいんです。今までただ「不思議だ」とだけ思っていたことに,なんとなくであってもイメージができたのですから。 「細かいことは専門家に任せておけばいい」けど,おおざっぱなイメージや〈ちょっと原理的な感じがするようなこと〉は,知りたい・・・,そして,それが何となくわかってきたような気がしているのです。 ●スタートは 私の疑問のスタートは,〈ものとその電気〉の検討会の高原周一さん〔岡山〕の言葉からでした。 〈ものとその電気〉は「すべてのものは電気を持っている」ということがよく分かり感動する授業書案です。その最後に,高原さんは「すべての科学的な結合も,反応も,みんな電気の力なんですよ」とおっしゃったのです。私は,「みんな?ホントにみんな?」と,とても驚きました。〈原子や分子の結合などには,もっと違う力が働いているというようなイメージ〉を何となく持っていたのだと思います。 私は,原子と原子の結合に,イオン結合だとか共有結合だというものがあることは,随分前から知っていました。「原子核を取り巻く電子には,軌道というものがあって,その軌道をいっぱいにするために・・・・」という説明は分かりやすいものでした。 その時,イオン結合は,「片方の原子は電子をもらってマイナスに帯電して,もう片方の原子は電子を上げて+電気に帯電して,結びつく」というのですから,説明を要するまでもなく,電気の力によって結合していることは明らかでした。 しかし,共有結合の方は,どうでしょうか。共有結合の場合は「軌道をいっぱいにするためにお互いに電子を持ち合う」みたいな感じの説明がされます。すでに,〈いくつかの電子が入ってる軌道〉に〈ほかの原子の電子〉が入り込むというのです。そうすると軌道が満タンになって,安定するというのです。そこには電気の力の話は出てきません。いや,むしろ,電気の力を考えたら,その説明は受け入れられなくなってしまう可能性があります。「電子と電子はどちらも同じ-の電気をもっている」「-の電気と-の電気は退け合う」と考えたら,「電子のあるところに電子が入っていく」なんて,電気の力のことを考えたら,「どうしてそんなことが起こるの?」と思ってしまって,その話に抵抗を感じてしまいそうです。 私は,電気の力とは無関係に,電気の力のことなんか考えずに,共有結合の話を受け入れ,ずっとずっと長い間それで納得した気持ちになっていました。 そこで私は高原さんの話に対して「すべて電気の力?ということは,共有結合も電気の力なの?」「どうしてそういうことが可能になるの?」と思ったのでした。 ●分子間力の場合 その後,私が思い出した力に,分子間力というものがありました。 《空気と気圧》の授業書で取り上げた実験の一つに,「プラコップと下敷きがくっつく」というものがありました。その理由を私は「気圧のせい」と考えていたのですが,もしかしたら,「分子間力というものも働いているかもしれない」ということで,調べたり話を聞いたりしていたのです。分子間力は結局よく分からなかったけど,私の取り上げた実験については「気圧のせいと言って間違いない」ということだけを確認して終わっていました。 分子と分子のあいだには,分子間力というものが働くらしい。ヤモリの足が壁などにくっつくのはその力らしいので,結構大きな力です。 「すべては電気の力ということは,分子間力も電気の力なの?」と,再度調べてみると,どうやらそうみたいなことが書いてあります。わけのわからない力のときには,取りつく島もありませんが,「電気の力」というと少しはイメージできます。そして「電気の力って,〈+と-でくっつく〉という,ただそれだけでしょ」とも思えます。 しかし,そう思うと,その時の私には,分子間力はますますわからなくなりました。どんな分子でも,原子核は原子のまんなかにあるのですから表面は電子です。ということは,それが結びついた分子だって,表面は電子ばっかりです。電子つまり-の電気です。分子の表面はみんな-の電気で覆われているのに,どうして,分子同士がその電気の力でくっつくことができるのでしょう? ●「たのゼミ」への質問 こんな風にわけがわからなくなって,図書館でいろいろ調べたりした後,それでも,よく分からなくて,私は「たのゼミ」のメーリングリストの9月の近況に以下のように書きました。
これについては,兼子美奈子さん〔神奈川〕がいろいろ詳しく書いてくださったので,少しイメージが描けるようになりました。瞬間的な動きや,エネルギーのことやら,いろいろ要因はあるようですが,電気の力(その片寄も含めて)によることは間違いないようでした。そして,いわゆる水素結合と言われる水素の働きも大きいようでした。私は「そうか,水素は電子が一個しかないから,電子があっちの方に偏ってしまったら,〈後はむき出しの陽子みたいな感じ〉になってしまうのか~~。それは,力が強いはずだね」みたいなことを思い浮かべるようにもなりました。(兼子さん,このイメージ,大丈夫でしょうか?) ●原子が違うから それでも釈然としない感じで残ったのが,共有結合のことでした。電気の力で,どうやってこの結合が可能なのか,やっぱり分からなかったのです。この時の私はまだ「陽子と電子で+-0になったら,電気の力はなくなってしまう」みたいなイメージを持っていたのだと思います。 しかし,これについては兼子さんが教えてくださった『原子の目で見る』(城雄二著・仮説社)の本+αで,だんだんイメージが描けるようになった気がしています。 そうして,結局,共有結合の謎についての私の結論は,この資料の最初の方に「今の私のイメージ」に書いた「原子によって違いができる」ということに尽きるような気がしています。 どの原子でも,陽子の数と電子の数は同じで+-0だけど,その数が違うと陽子の影響力にも,(電子の分布状況や密度等々の違いによって)電子の影響力にも違いができる。その中には,〈-をひきつける力の強い原子〉というものも存在する。そして,そういう原子同士で電子を共有して,共有結合ができる…‥‥ということではないかと思ったのですが,いかがでしょうか。 ●おわりに 私の抱いた誤解や疑問は、私だけのものでしょうか? これまでの経験から、私は多分そうではないと思います。 誤解も疑問も、普通の人が抱くものはたいてい同じようなものだと思います。 でも、すべての誤解がいけないものだとは思いません。 おそらく《もしも原子がみえたなら》の授業を受けた子供たちはほとんどすべて「原子というのは発泡スチロール球のようなものだ」というイメージを抱くことでしょう。分子ができるときは原子と原子がめり込むイメージを持つとしたら、発泡スチロール球とは違うところがあることは分かっても、でも、〈中身の詰まった球〉というイメージは変わらないでしょう。 私はこれをいけないことだとは思いません。それでいいと思います。 ただ、そこから一歩進むときにはどうするのがいいのでしょうか? 「そこから一歩進むとき」というのは科学入門教育の範疇に入るのか?入らないのか?それもよく分からないのですが、 |